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『一蘭』で思い出す奴隷時代

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私は社会人になって最初の赴任地が福岡だった。博多の西部支社というところで新人記者(奴隷とも言う)として物書きのキャリアをスタートしたわけだが、月に3回は「泊り番」という、労基法に堂々と違反した業務を強制されていた。今おもえば、労基署に訴えたり、流行りの残業代返還訴訟でもやれば、絶対に勝てた。違法という点で、懲役刑よりもひどい労働だと思う。

普通に朝から仕事をして、取材して記事を書いて、午前0時を回り、そのまま泊り番に突入。これはデスクの手伝い仕事が中心。

お悔やみ(死亡)ニュースが共同電で流れてくると、遺族や会社に電話して確認。「別に悲しそうにする必要はないから、淡々とな」(デスク)みたいな取材。デカい火事とか突発的な事件が起きて朝刊に入れる必要があれば当局に確認とって記事化。

さらに、殺人とかデカい事件が起きたら現場に出て行くわけだが、一度もそういう事件はおきなかった。だいたい午前0時回っても半分くらい記者がオフィスにいるわけだし(異常)、それから朝刊締切の午前3時過ぎまでの間に、そんなにデカいニュースめったにおきないって。

一度、テレビが中継するくらいの火事が、中洲という歓楽街で起きたことがあった。編集部に、電話がかかってきた。「ウチの主人は、無事でしょうか?」。筆頭デスクの奥さんからだった。いつも中洲で遊んでいるから、心配になったのである。そういう会社だった。

何か起きたら、呼び出せばいーじゃん。要するに、ポケベルやケータイがなかった時代の慣習が、惰性でそのまま続いているのだった。前例踏襲をこよなく愛す官僚組織なので、軽く事業仕分けしてやれば、蓮舫氏に「記者は不要だから廃止」と一蹴されたはずである。

死亡記事とか共同電の確認とか、いま思えば、デスクが1人でやればできるような簡単な仕事ばかりだ。年収1500万円も貰ってるんだから、机に足のっけてタバコふかしてないで、年収に見合う仕事をデスクが1人でやればよい。新聞社は本当に無駄の塊のような組織だった。

それで、深夜3時15分。朝刊の締め切り時刻になると、「じゃーな」とデスクがタクシーを呼びつけて、悠々と帰っていく。デスクはローテ勤務で夕方17時出社だからピンピンしてるが、こっちは朝から働いてんだから、意識が朦朧としている。

それから、セブンイレブンに行って夜食を買ってくることもあったが、コンビニ飯はすぐ飽きる。そういうときは、24時間営業の『一蘭』(天神)までタクシーチケットを使って行くのだ。

 疲労した体に、あの唐辛子入りの秘伝のタレと、臭みのないとんこつスープが 染み入る。替え玉もよく注文した。底に見える「この一滴が最高の喜びです」という文字は当時からあったが、容器は黒ではなく白地に赤だった。

そのとおり!と思いながら、最後の一滴まで飲む。すると、いつも底にザラザラとした何か(とんこつ?)が残っていた

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