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退職→休養3カ月半→再就職2カ月半で死亡でも「前の会社が原因」と過労死認定

情報提供
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出版関係者の運動会のリレーで優勝したときの矢田部暁則さん(左)
 今年4月、「過労死の認定基準をがらっと変えてしまう」(遺族側弁護士)とも言われる、興味深い判決が東京地裁であり、若手社員の過労死が認定された。2000年9月、印刷会社に勤めていた当時27歳の矢田部暁則さんが、就寝中にくも膜下出血を起して死亡。中途採用の正社員として働き始めて2カ月半後のことだった。その印刷会社に転職する前の3カ月半は自宅休養しており、その前はレンタルビデオ店「リバティー」(株式会社クオーク)で不規則かつ長時間労働だった。休養期間を経て、しかも退職から6カ月が過ぎて死亡したのは、リバティーでの働き方が原因と言えるのかが焦点だった。暁則さんの身に何が起きていたのか、母・和子さんに話を聞いた。(判決文はPDFダウンロード可)

 いまから10年以上前の2000年9月上旬、東京都内の印刷会社に勤めていた27歳の男性社員が、就寝中にくも膜下出血を起して死亡した。6月下旬から中途採用の正社員として働き始めて2カ月半後のことだった。

 死亡時の勤務先は印刷会社だが、1999年3月半ばまで働いていた前の会社の勤務状況は過酷だった。朝からの勤務と夕方からの勤務が交互に入るような滅茶苦茶なシフトで、一時期は月100時間以上の残業が続き、2カ月以上にわたり完全な休みがないこともあった。2年ほど勤めてこの会社を退職。その後の約3カ月間は主に家で休養しており、就職活動はしていたが働いていなかった。記録された時間外労働時間は、以下のとおり、異常に多いともいえない。

発症前時間外労働時間外労働の月平均
1カ月44時間39分--------
2カ月50時間04分2カ月平均47時間21分
3カ月15時間52分3カ月平均36時間51分
4カ月00時間00分4カ月平均27時間38分
5カ月00時間00分5カ月平均22時間06分
6カ月00時間00分6カ月平均18時間25分

 この男性が死亡した翌01年12月に国は過労死認定基準を改定、「発症前1か月間におおむね100時間」または「発症前2か月間ないし6か月間にわたって、1か月当たりおおむね80時間」の時間外労働がある場合は業務との関連性が強いとする現在の基準に変更した。

 では、現行の過労死基準を超える労働をしていた社員が、退職後に3カ月ほど休養し、すでに別の会社で常識的な働き方をしており、しかも退職から6カ月以上が過ぎて死亡したのは、前の会社での働き方が原因だったと言えるかどうかーー。

 このような裁判の判決が今年4月、東京地裁であった。前の会社での過労が原因だったとする労災申請が認められなかったため、男性社員の母が08年10月、不認定の取消しを求めて国を提訴していた。裁判では遺族側が勝訴したものの、「過労死の認定基準をがらっと変えてしまう重要な事例」(遺族側弁護士)であることから、これを認めるわけにはいかない国が控訴している。

 死亡した男性社員は、埼玉県在住だった矢田部暁則さん(死亡時27歳)。印刷会社の前に勤務していた会社というのは、秋葉原や池袋など首都圏に19店舗(00年当時)を持つレンタルビデオ店「リバティー」だ(株式会社クオーク)。

 遺族は裁判で、リバティーでの疲労の蓄積がくも膜下出血の原因だったと主張している。暁則さんはどのような働き方をしていたのか。母・和子さんから話を聞いた。

◇時系列

1993年03月---日専門学校卒業
1993年04月---日出版社に入社
1998年07月---日出版社を退職
1998年08月01日クオーク入社
2000年03月15日クオーク退職
2000年06月27日印刷会社に入社
2000年09月08日死亡(27歳)
2002年09月02日川口労働基準監督署に労災申請(足立労基署へ移送)
2003年06月17日足立労働基準監督署が労災認定せず
2003年07月16日東京労働者災害補償保険審査官に審査請求
2004年03月08日東京労働者災害補償保険審査官が審査請求を棄却
2004年04月19日労働保険審査会に再審請求
2007年04月25日さいたま地裁に損害賠償請求を提訴(対クオーク、係属中)
2008年04月30日労働保険審査会が再審請求を棄却
2008年10月01日労災認定を求め東京地裁に提訴(対国)
2011年04月18日東京地裁で勝訴
2011年05月02日国が控訴(東京高裁に係属中)
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暁則さんの母、和子さん

◇186センチ75キロのスポーツマン
 暁則さんは都内の専門学校を卒業後、最初の就職先である出版社に入社し、営業部門に配属された。編集希望だったが、大卒社員はどんどん編集部に異動していくのに、不況による事業縮小の影響もあり、なかなか編集部に移れないことから6年目に退職、クオークに再就職した。

 和子さんの話では、暁則さんは出版社時代、職場の同僚たちと秋葉原でよく遊んでいたという。また、暁則さんは72年生まれだから、子供時代はファミコン全盛期にあたる。

 親分肌だった暁則さんの家に同級生らが集まり、みんなでゲームをして遊んだそうだ。クオークはゲームソフトも扱っていたから、再就職先にクオークを選んだのは、そんな縁かららしい。

 身長186センチ、体重75キロ。健康でスポーツマン、風邪をひくことがある程度だった。高校時代は陸上をやっていた。出版関係者が集まる運動会では、同僚たちと皇居のまわりでリレーの練習を重ね、本番で優勝したこともあった。好きな食べ物はいろいろ。「唐揚げとかね、海老フライとか、お好み焼きとか、何でも。あとは皆さんよく食べるカレーとか。そういうの好きでしたね」と和子さんは言う。

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遺族が作成した勤務時間グラフ。4枚中2枚。全部は記事末尾からダウンロード可。

◇早番と遅番が交互に 滅茶苦茶な不規則勤務

 「南越谷店に行ったら深夜勤務がだんだん入ってきて。日本航空のチーフパーサーの方がこれを見て、『これじゃあ3カ月働いたら普通辞めるよ』って言うんですよ」

 和子さんがまず見せてくれたのは、暁則さんの勤務時間をまとめたグラフだ。リバティーで働いていた98年8月1日から00年3月5日までの毎日の勤務状況が一目で分かる。南越谷店というのは、暁則さんにとって2店目の店舗。労基署がタイムカードから作成した勤務時間表をもとにグラフ化した。

 入社3カ月間の研修中は秋葉原4号店で仕事をしていた。午後8時閉店だったため、午前9時半や11時前に出勤し、午後10時前に退勤するシフトだった。10月の残業は50時間近かったが、勤務時間帯は安定していた。11月10日に南越谷店に異動しても、午後4時から午前1時までの遅番を担当していなかったため、午後9時頃には退勤することができた。

 「何時に出勤して何時に帰ってくるのか、固定した勤務時間がないんですよ。秋葉原店はまあまあですよね。たまに深夜勤務が入ったりするくらいで。それがね、2つ目の南越谷店に行ってからこういう勤務になって。会社は8時間勤務するのは早番だろうが遅番だろうが同じだっていう扱いなんですよ」

 ところが、翌99年1月1日になると遅番も担当するようになった。暁則さんの勤務時間は、これをきっかけに滅茶苦茶になっていく

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辞めるアルバイトが残したメモ書き

リバティー秋葉原4号店(2011年6月撮影)

休養期間があっても過労死認定した判決の一部。判決全文は記事末尾からダウンロード可。

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