オンラインゲームの可能性
長らく国内のネットワーク会社の広報職を勤めて来た。会社はいくつか転々としたものの、「コミュニティ」「インターネット」「広報」という三つのキーワードが必ず満たされるようなキャリアパスを通ってきたつもりだ。
理由は、ネットの持つインタラクティブ性ゆえの性質による。広報という職業はインタラクティブ性を辛抱強く繰り返しつつ、企業が社会と関係を築いて行く仕事だと個人的には思っている。
初めてネットワークの仕事をしたときは、戦後日本が進めて来た教育(個人の個の確立)により失われて久しい「コミュニティ」の代替えになるのでは無いか?という手応えを覚えた。
シニア層が自分達が苦労して必死に覚えたパソコンネットワークを今度は新しい仲間に教えると行った「メロウフォーラムソサエティ」活動などが政府外郭団体を中心に行われ、高齢者達が自ら新しいテクノロジーに馴染み、新しいテクノロジーが変える生活に自発的に取り組もうとした。テクノロジーがいかに消費活動を実施するメイン層をターゲットとしているか(使いやすさや基準)等が明らかにされる場面もあった。
コミュニティが喪失された事による弊害は、もちろん社会的生き物である人間にも影響を及ぼして来た。コミュニティの中の伝統が分断され、家庭内でも子供を育てて行く環境や、伝わって当然のしきたりが伝達されない事による、エチケットの崩壊や、習慣に基づいた。慣例の現象、知恵の喪失もどうしようも無く押し寄せても来た。
そうした事を何時の日かリアルタイムで解消出来るような、インターネットが人と人が支え合うコミュニケーションを維持するテクノロジーとなる日が来るのでは無いのか?まだまだ未熟な若輩者だった私はそんな事を考えたりもした。
しかし、実際にブロードバンドが当然と言われるようになった現在、インターネットは我々の生活に密着した存在になった。今や転職活動・就職活動と行った人生の重要な局面にインターネットが無い事で弊害さえ生じる世の中となりつつある。10年前、WINDOWS95が発売されるのをテレビのカウントダウンで見ていた世代には想像もつかない利用率となった。
新しいテクノロジーが開発され浸透し、利用が一般化される時には、テクノロジーが持つ良い影響・良い側面ではなく、悪い影響・悪い側面を見せる。ネットの国内黎明期時代には「動画」「画像」「音楽」「テキスト」と、デジタル化可能なものは何でも伝送可能と言われ、それが「金のなる木」として多くのベンチャー起業がビジネスモデルを考え、ビットバレーと呼ばれる一軍が取りざたされたりもした。
インターネットの良い側面、そして既存の伝送媒体と最も異なる大きな側面は、インタラクティブ性(双方向性)である。既存のコンテンツには、インタラクティブ性を最大限に利用したコンテンツが存在しなかった。情報は情報の信頼性の高い提供元から、情報を欲しがっている所へ一方向的に流れて行くだけだ。
インターネットを本当に活用するのであれば、インターネットの持つ、時間(テレビは時間で区切られるメディア)とスペース(紙媒体はスペースで区切られるメディア)を超えた保存力と、双方向性を最大限に活用出来るコンテンツを、新たに創造する必要がある。
映画をネット上で配信しても、そこにインタラクティブ性を盛り込むのは難しい。映画は完成された作品だからだ。完成されているからこそ、一方的に視聴者は受動的にコンテンツを受け取るだけの作品以上にはなりにくい。そこにインタラクティブ性を持ち込めばシナリオライター・監督・そして、俳優がプロフェッショナルとして、構築した世界が壊れる可能性が高くなる。
せいぜい完成された映画の世界観をデジタルゲームの世界に移植するとしても、一般のコンシューマーゲームの域を出る事は無い。ユーザが自由にともすると変更出来る双方向性の強い世界に完成度の高いものを移植する事は、リスクが高い。そこでは完璧にコントロールして作られた世界観を崩壊させる可能性さえあり、企業にとってはそれは危険なかけになってしまう。
そこには著作権等を含めた難しい問題も顔を出してくる。しかし、創造が創造を呼ぶ時、その創造の元となるものを強固に維持し主張する事に何かの意味があるのかどうか私には分からない。しかし、どちらにせよ倫理も含めた難しい問題がそこに存在するのは事実である。
それでは上り・下りが存在する事が既存の伝達媒体と大きく違うインターネットが、今後それらの特徴(DB的蓄積量・時間速度等)を総合し、もっとも洗練されたコンテンツとして花開くのは、一体どんなコンテンツなのか?
現時点でこれらの要素を今いちばん利用し、多人数が参加し実現出来るようになった最先端のコンテンツが「オンラインゲーム」である。約10年間インターネットの世界に居る私は、それを肌に感じている。それが、私がネットの世界に触れたばかりの当初に感じた、漠たる「人と人とを繋ぐコミュニティの代替え」になるのかどうかは今の時点では分からない。
ブロードバンドの時代が来て、リッチな音楽と、リッチな映像そして、そこで展開される筋書きの無い双方向性の強い、人の欲求でどうにでも展開する世界。それら全ての条件をもっとも有効に利用して構築される世界を表現出来る、というジャンルは、今の所まだ「オンラインゲーム」しかないのではないか?
もしかして、私の描いた、人に優しいインターネット等というものは、はなから存在しないのかもしれない。オンラインゲームというコンテンツ自体が、私の思い描いたそれに相当するのだろうか?
現時点に於いては、そうしたオンラインゲームが、人に優しく何かを達成したり、本当の意味の人のクリエイティブ性を満たしてくれるものとなって行くかどうかについては、疑問である。
ただ、もしかすると、オンラインゲームの世界の先に何らかのゲームを超えた何がしか、が生まれてくる可能性は、勿論存在するとは思う。現時点でそれを想像する事は難しい。
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読者コメント
関西も原発の問題、福島のみなさんの苦しみ、反対の市民の声があっても、平日休暇を取っての「○部長杯」ゴルフコンペ開催をはじめ、飲み会も相変わらず何ら危機感ゼロ。個々人でゴルフを楽しむのは賛成です。やはり社員も生きる源として必要。全く社会からずれた会社体質。悲しいです。むなしいです。 とてもデモ、福島のことをみると私は参加する気になりません。 以上
主張がどこにあるかわかりづらい。さくらさんはリネージュやって反省してください
ソーシャルネットワークコミュニティという言葉ないしは存在を、ご存知でしょうか?国内最大の同専門サイトは、カフェスタかと思いますが、既に100万人もの利用者が存在します。他にも、ヤフーやMSN、エキサイトといった大手ポータルサイトや、マイナーではありますが、それ専門のサイトもあります。ご参考迄。
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