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作文の「書き出し」と「終わり」

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人生ではじめて、小説を書いて『週刊東洋経済』で発表した。シミュレーションドキュメンタリー短編小説、全6ページ、約1万字である。

作文というのは、一番重要なのが「書き出し」で、次に重要なのが「終わり」だと思っている。最初と最後がよくないと、中身など二の次で、そもそも読まれない。読まれないものは存在価値ゼロだ。

 書き出しは「先を読みたくなるかどうか」が重要である。センスのよさも問われる。今回は、1週間くらい考えたすえに、書き出しはこうした。

 その日が注目されるのも、無理からぬことだった。2013年10月×日、毎月1度の、10年物利付国債の入札日。

そして、書き始めて、途中からは、どうやって終わりにしようか、ずっと考え続けていた。終わりは、「示唆するもの」が含まれていて、なるほど、読んでよかった、と読者に思わせないといけない。

終わりの場面が見えて、思いついて、よし、これでいい、と思えると、あとは早かった。それが最後の1文である。兄弟が再開し、別れる場面で小説は終わる。

 丸の内の旧本社ビルには赤い国旗がはためき、銀行名からは「四菱」の文字が消えていた。

日本経済は復活するが、光と影の「影」の部分を示唆している。影の部分は、格差の拡大についての記述がその前にあるのだが、それに加えて終わりで言いたいのは、もちろん、自力で復活できずに中国企業の力を借り、半ば侵略されてしまった悲しさである。

伏線として、「外圧がないと変われない」日本について主人公に前半で語らせている。日本の歴史的背景や銀行の合併にともなう社名変更など、歴史や経営の基本を理解していないレベルの人には響かないが、分かる人には染み入る。そのくらいがちょうどいい。

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ちなみに、左記は、私が日経の入社試験で書いた作文を、家に帰って思い出しながら書いたものである。お題は「不安」で制限時間は1時間、字数は1千字。ちょうどオウム真理教のテロと阪神大震災の直後(95年)で、都知事選の年で、現在と似たご時世だった。

これも、書き出しがいい。終わりも悪くない。その場でこれを書いたとき、僕は文才があるかもしれないな、と思ったものである。

この試験に先立ち、今でも覚えているのは、ゼミの先輩(今は共同通信にいる吉浦さん)と就職活動のときに、よい作文とは何か、について話していたときのことだ。

「たとえば『始まりは、ささいなことだった』なんて書き始めだったら、先を読みたくなるだろう?」

そう言われて、確かにそうだと思い、書き始めに気を遣うようになった。僕はとても素直な人間なので、良いことはすぐに取り入れる。

そして、就活の作文についていえば、会ってみたくなるかどうか、が重要で、そういう文の終わり方をしているか、がポイントとなる。僕が読む側だったら、とりあえずこいつは面接に呼ぶか、と今でも思うだろう。

加害者にだけはなりたくない

もとから僕は、大学教授や弁護士や官僚の文章を読むたびに、そのサービス精神のなさにアタマに来ることしきりであった。こんなクズ文ばかり書いて、よく仕事の対価を得ているものだ、と今でもビックリしている。

学生時代に課題図書を読まされると、いつも文句タラタラ(興味をそそらねーんだよ、つまんねーんだよ、へたくそなんだよ、頭悪すぎだろ…)だったので、自然と「絶対に自分が加害者になってはいけない、加害者にだけはなりたくない」という意識から、まともな文章とは何か、を考えるようになっていた。

だから、能力が高く、読解力に優れた人は、僕と違って、難解な文章もスラスラ理解できてしまうので、自分自身も難解な文章を書くようになり、「文才」も開発されないのだと思う。

 ある部分が欠落しているからこそ、他の部分が秀でていく。何かを失うからこそ、何かを得られる。これは、人生全般にいえることだろう。

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