最高裁ホールで記念写真におさまる15人の判事と小法廷の審理の様子(現在の顔ぶれではない)。足利事件の冤罪判決を書いた5人のうち3人の姿もある(黄線印)。左から梶谷玄・北川弘治・福田博--の各氏。北川氏以外は民間企業の役員となった(「司法の窓」より)。
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子どもに好かれた通園バス運転手だった菅家利和さんに「人殺し」の濡れ衣を着せ、17年以上にもわたって獄中に閉じ込めた「足利事件」。罪深い冤罪判決を下した最高裁第二小法廷の判事5人のうち4人は、何のおとがめも受けず、退官後は大企業の役員や大手弁護士法人の顧問、有名私大教授に“再就職”していたことが分かった。人生を破壊された菅家さんなど眼中にないかのように、判事たちは平和で豊かな老後を送っている。昨年3月の再審判決公判で宇都宮地裁の佐藤正信裁判長は菅家さんに謝罪したが、判決を確定させた当時の判事たちからは謝罪の言葉すらない。この5人は、冤罪の疑いが濃厚な「東電OL殺人事件」にもかかわっている。無実の民を陥れた彼らの罪が裁かれない限り、我々もいつ、冤罪で獄中に送り込まれるか分かったものではない。
【Digest】
◇冤罪判決出した最高裁5人組のその後
◇DNA再鑑定を――無実の訴えを無視した最高裁
◇元検事の亀山裁判長は東海大教授に
◇東海大大学院就職は「一宿一飯の恩義」から
◇イトマン代理人もやった河合氏
◇「取材には応じていません」と河合氏秘書
◇外務→最高裁→東京海上・西村あさひの福田氏は大忙し
◇「イーグル工業とは昔からの付き合い」の梶谷玄氏
◇冤罪判決を書いた最高裁5人組のその後
まず足利事件の経緯について触れておこう。概要は冤罪被害者である菅家利和さんの手記『冤罪』(朝日新聞出版)を読めばよくわかる。
〈何の前触れもありませんでした。それはまさに人生で最悪の一日でした。決して忘れない、一九九一年十二月一日のことです。〉
このような菅家氏の告白から同書は始まっている。1990年5月12日、栃木県足利市のパチンコ店駐車場にいた女児(4歳)の行方がわからなくなった。夜になり、女児は付近の河原で絞殺体となってみつかった。約半年後の12月1日、栃木県警は殺人の容疑者として菅家さんを逮捕する。菅家さんにとって「人生で最悪の一日」だった。
この事件に先立ち、足利市では幼女が殺される事件が1984年と89年に相次いで起きていた。いずれも未解決で迷宮入りしていた。菅家さんを逮捕した栃木県警は、これら二件についても菅家さんを犯人だときめつけ、再逮捕・送検する。3連続幼女殺害事件は一挙に解決。犯人は菅家だ――当時の新聞テレビ通信社は、警察発表を基に「連続殺人犯菅家利和」報道を大量に流した。シロじゃないかと疑った人が、この当時日本中にどれだけいただろう。
しかし菅家さんは無実を訴えていた。宇都宮地検は最終的に91年の事件だけを起訴した。裏付ける証拠がなかったからだ。
残ったひとつの殺人事件について宇都宮地裁で公判がはじまったものの、菅家さんの供述は自白と否認の間を迷走する。無実を訴えたと思えば罪を認める。だがまた無実だという――。なぜそんなことになったのか、前掲書に実情が打ち明けられている。菅家さんは一貫して無実を訴えたかった。だが無実を口にするたびに検事や捜査員が圧力をかけた。おまけに弁護人までもが無実の訴えを一向に聞き入れなかった。
こうした四面楚歌の裁判の結果、無期懲役の判決が下される。弁護団が入れ替わって東京高裁の控訴審がはじまった。弁護人は無実を確信し、具体的な証拠を積み上げて無罪を主張する。しかし裁判官は一顧だにせず、棄却した。ただちに上告し、審議の場が最高裁に移された。1996年5月9日のことであった。
上告審で弁護側が訴えた争点は主にふたつ。一審の弁護人の弁護が不当で事実審理が不十分だったこと。そしてDNA鑑定の信頼性である。被害者の女児の下着には犯人の男のものと思われる精液がついていた。栃木県警は精液のDNA型を鑑定して「菅家氏のものと一致した」と結論づけた。これに対して弁護側は、鑑定の方法が旧式のもので結果は誤りである、再鑑定すべきだ――と訴えた。
上告審を担当したのは最高裁第二小法廷だった。判事は5人。亀山継夫(裁判長)・河合伸一・福田博・梶谷玄・北川弘治――の各氏だ。最高裁が結論を出したのは2000年7月17日である。棄却だった。
◇ DNA再鑑定を――無実の訴えを無視した最高裁判決
無実を訴える菅家さんを文字通り獄中に叩き込んだ判決だが、内容は以下のとおりごく簡単なものだった。実質的に中身はない。
〈…記録を精査しても、一審弁護人の弁護任務が被告人(菅家さん)の権利保護に欠ける点があったものとは認められない。――〉
〈…記録を精査しても、被告人(菅家さん)が犯人であるとした原判決に、事実誤認、法令違反があるとは認められない。――〉
信頼性に疑問があると訴えた栃木県警のDNA鑑定についてはこう述べている。
〈なお【要旨】本件で証拠のひとつとして採用されたいわゆるMCT118DNA型鑑定は、その科学的原理が理論的正確性を有し、具体的な実施の方法も、その技術を習得した者により、科学的に信頼される方法で行われたと認められる。したがって、右鑑定の証拠評価については、その後の科学技術の発展により新たに解明された事項等も加味して慎重に検討されるべきであるが、なおこれを証拠として用いることが許されるとした原判断は相当である。〉
検察の言うことを頭から信用して疑おうとしない。「警察のやることに間違いはない」と言っているようなものだ。5人の判事に誰一人としてDNA型鑑定の専門家はいないのだが、「科学」という言葉を繰り返して再鑑定の訴えを退けた。最高裁は反対意見を書くことができる。だが反対意見はひとつもなく、5人全員一致で「DNA再鑑定の必要はない」「菅家は有罪だ」と判断した。
こうして菅家さんの無期懲役が確定する。以後、2009年6月4日まで引き続き菅家さんは獄中で過ごした。東京高裁への再審即時抗告でDNA型の再鑑定が決定され、「不一致」という結果となって釈放されたのがこの日である。拘留はじつに17年半に及んだ。
もし当時の最高裁が慎重を期して再鑑定を決定していれば、少なくとも9年の刑務所生活はせずにすんだわけだ。証拠の再鑑定をなぜそれほど嫌がったのか。最高裁の判事たちも菅家さんが無罪であることを薄々でも知っていたからではないか。そんな気すらしてくる。
そしてここからが本稿の本題である。ひとりの人生を台無しにしておきながら、判決を書いた亀山氏らの退官後の身の振り方が興味深い。以下、5人それぞれに取材を試みた。
北川氏をのぞいて5人のうち4人が、大企業の役員や有名私立大の教授に再就職して報酬を得ている。刑務所で辛い目をしている菅家さんの境遇と比べてあまりにもお気楽というほかない。
判事5人と再就職状況は次のとおりである。
●亀山継夫(元名古屋高検検事長。最高裁判事1998年12月~2004年2月。退官後、04年4月~09年3月まで東海大学法科大学院研究科長)
● 河合伸一(元大阪弁護士会副会長。最高裁判事1994年7月~2002年6月。退官後は大手弁護士法人「アンダーソン=毛利=友常法律事務所」顧問、阪神阪急ホールディングズ監査役)
● 福田博(元外務官僚。マレーシア大使、外務審議官など。最高裁判事1995年9月~2005年8月。退官後は大手弁護士法人「西村あさひ法律事務所」所属弁護士。東京海上ホールディングズ監査役)
● 梶谷玄(弁護士。元大阪弁護士会会長、日弁連副会長。最高裁判事1999年4月~2005年1月。退官後にイーグル工業監査役、NOK監査役)
●北川弘治(元判事、福岡高裁長官など。1998年9月~2004年12月まで最高裁判事。民間企業等への役員就任などはなし)
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元検事の亀山継夫氏(左)は退官後に東海大学法科大学院の教授になった。検事退職後、最高裁判事就任前に教授になっていた。「一宿一飯の恩義」で引き受けたという。最高裁の広報誌「司法の窓」に登場した山下泰裕・東海大助教授(右)。東海大と最高裁は縁があるのか(「司法の窓」より)。 |
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◇ 元検事の亀山裁判長は東海大教授に
裁判長の亀山継夫氏からみていこう
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弁護士から最高裁判事に起用された河合伸一氏。銀行や企業と縁が深く、過去にイトマンの代理人をしたこともある。現在は大手弁護士法人アンダーソン=毛利=友常法律事務所に所属している(写真上・アンダーソン事務所のHPより)。愛犬について書いた一文(写真下・「司法の窓」より)。 |
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多忙を理由に唯一意見を聞くことができなかった元外交官の福田博氏。大手弁護士法人西村あさひ法律事務所に所属、東京海上HDの役員もしている(西村あさひ法律事務所のHPより)。 |
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日弁連副会長から最高裁判事となった梶谷玄氏。父親丈夫氏も日弁連副会長、弟の剛氏は日弁連会長をした。現在はイーグル工業・NOKの役員。もともと顧問先としてのつきあいがあったという。 |
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