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真に不健康なものを扱う仕事

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 トルコを旅したとき読んだ村上春樹の『雨天炎天 』の文章がなかなか面白かったので『走ることについて語るときに僕の語ること』を読んでみた。

「僕は1982年の秋に走り始め、以来23年近く走り続けてきた。ほとんど毎日ジョギングをし、毎年最低一度はフル・マラソンを走り(計算すると今までに23回走っている)、そのほか世界各地で数え切れないくらい、長短様々の距離のレースに出場した」というから、半端ないランナーだ。

私はこれまで、立花隆や佐野眞一といった大物ジャーナリストの著作・大作を読むにつけ、「意地でも解明してやる」といった執念深さや偏執狂でパラノイアな好奇心がもっとも重要な資質だと思っていたのだが、もの書きとして継続的にアウトプットを続けるには、村上氏のいうことは正攻法として説得力がある。

才能の次に、小説家にとって何が重要な資質かと問われれば、迷うことなく集中力をあげる。自分の持っている限られた量の才能を、必要な一点に集約して注ぎ込める能力。これがなければ、大事なことは何も達成できない。そしてこの力を有効に用いれば、才能の不足や偏在をある程度補うことができる。僕は普段、1日に3時間か4時間、朝のうちに集中して仕事をする。机に向かって、自分の書いているものだけに意識を傾倒する。ほかには何も考えない。ほかには何も見ない。

 集中する力が必要→集中するには体力が必要→だから鍛える必要がある。これは勝間氏も同じことを言っている。したがって勝間氏は都内を自転車で移動し、村上氏はジョギングするわけである。

 長編小説を書くという作業は、根本的には肉体労働であると僕は認識している。文章を書くこと自体はたぶん頭脳労働だ。しかし一冊のまとまった本を書きあげることは、むしろ肉体労働に近い。もちろん本を書くために、何か重いものを持ち上げたり、速く走ったり、高く飛んだりする必要はない。だから世間の多くの人々は見かけだけを見て、作家の仕事を静かな知的書斎労働だとみなしているようだ。コーヒーカップを持ち上げる程度の力があれば、小説なんて書けてしまうんだろうと。しかし実際にやってみれば、小説を書くというのがそんな穏やかな仕事ではないことが、すぐにおわかりいただけるはずだ。机の前に座って、神経をレーザービームのように一点に集中し、無の地平から想像力を立ち上げ、物語を生みだし、正しい言葉をひとつひとつ選び取り、すべての流れをあるべき位置に保ち続ける――そのような作業は、一般的に考えられているよりも遥かに大量のエネルギーを、長期にわたって必要とする。
(中略)
 巨人ならざる世間の大半の作家たち(僕ももちろんそのうちの1人だ)は多かれ少なかれ、才能の絶対量の不足分を、それぞれに工夫し努力し、いろんな側面から補強していかなくてはならない。そうしないことには、少しなりとも価値のある小説を、長い期間にわたって書き続けることは不可能になってしまう。そしてどのような方法で、どのような方向から自らを補強していくかということが、それぞれの作家の個性となり、持ち味となる。僕自身について語るなら、僕は小説を書くことについての多くを、道路を毎朝走ることから学んできた。

今年5月に出した『1Q84』という長編小説が、史上最速のバカ売れをして、続編執筆中だそうだ。60歳にして自身の最大ヒット作を出しているわけだから、まさにトレーニングの賜物、自らのトレーニング理論を実証したことになる。

少しでも長く、老いてなお、よい小説を書きたいのだと述べる村上氏に対して、期せずして思い浮かんだのは、中川昭一元大臣だ。若くして亡くなってしまったが、酒、タバコ、睡眠薬と、村上氏とは正反対の生活。まさに「太く短く生きる」タイプ。あれはあれで1つの生き方だ。私は人間味のある中川氏が好きだったが、自分が明らかに村上氏のほうに近いから逆に羨望を感じるのかもしれない。

本書で特に面白いと思ったのは、「真に不健康なものを扱うためには、人はできるだけ健康でなくてはならない」と述べている以下のくだりである。ああ、ジャーナリズムもまったく同じだな、と思ったからだ。

 「村上さんみたいに毎日、健康的な生活を送っていたら、そのうちに小説が書けなくなるんじゃありませんか?」みたいなことをどきどき人に言われる。(中略)小説を書くということは、即ち不健康な行為であり、作家たるものは公序良俗から遠く離れたところで、できるだけ健全ならざる生活を送らなくてはならない。そうすることによって、作家は俗世と決別し、芸術的価値を持つ純粋な何かにより近接することができるのだーーといった通念のようなものが世間には根強く存在する。
(中略)
 小説を書くのが不健康な作業であるという主張には、基本的に賛成したい。われわれが小説を書こうとするとき、つまり文章を用いて物語を立ち上げようとするときには、人間存在の根本にある毒素のようなものが、否応なく抽出されて表に出てくる。作家は多かれ少なかれその毒素と正面から向かい合い、危険を承知の上で手際よく処理していかなくてはならない。そのような毒素の介在なしには、真の意味での創造行為をおこなうことはできないからだ(妙なたとえで申し訳ないが、河豚は毒のあるあたりがいちばん美味い、というのにちょっと似ているかもしれない)。それはどのように考えても「健康的」な作業とは言えないだろう。
 要するに芸術行為とは、そもそもの成り立ちからして、不健康な、反社会的要素を内包したものなのだ。僕はそれを進んで認める。だからこそ作家(芸術家)の中には、実生活そのもののレベルから退廃的になり、あるいは反社会的な衣装をまとう人々が少なくない。それも理解できる。というか、そのような姿勢を決して否定するものではない。しかし僕は思うのだが、息長く職業的に小説を書き続けていこうと望むなら、我々はそのような危険な(ある場合には命取りになる)体内の毒素に対抗できる、自前の免疫システムを作り上げなくてはならない。そうすることによって、我々はより強い毒素を正しく効率よく処理できるようになる。言い換えれば、よりパワフルな物語を立ち上げられるようになる。そしてこの自己免疫システムを作り上げ、長期にわたって維持していくには、生半可ではないエネルギーが必要になる。どこかにそのエネルギーを求めなくてはならない。そして我々自身の基礎体力のほかに、そのエネルギーを求めるべき場所が存在するだろうか?
(中略)
 真に不健康なものを扱うためには、人はできるだけ健康でなくてはならない。それが僕のテーゼである。つまり不健全な魂もまた、健全な肉体を必要としているわけだ。逆説的に聞こえるかもしれない。しかしそれは、職業的小説家になってからこのかた、僕が身をもってひしひしと感じ続けてきたことだ。

ジャーナリズムも似ていて、闇の部分を進んで扱う仕事だ(企業や官庁のPRばかりしている自称ジャーナリストもいるが、それは広報マンというジャーナリストとは真逆の、別の職業である)。

 私も『トヨタの闇』という本を出している。闇の部分は、それ自体は不健康でネガティブだが、それを伝えることで世の中をよくするのがジャーナリズムだ。「裁判所は負のオーラに充ちている」とホリエモンが書いていたが、MyNewsJapanは裁判記事を不可避的に扱う。不動産の事故物件サイトの紹介記事 など、飛び降り自殺だ、刺殺だ、火災だ、と見ていて疲れた。だが、そういう活動を伝えることで世界は前進するのだ。

「河豚は毒のあるあたりがいちばん美味い」というのはうまいたとえだと思う。トヨタという河豚における毒は過労死だったり巨額の広告予算による報道統制だったりするわけだ。

最近、精神的に参っていることが多いのは、不健康なオーラに自分が耐えられなくなってきたのかもしれない。トレーニングが足りないのだろう。「真に不健康なものを扱うためには、人はできるだけ健康でなくてはならない」。至言である。「毒素に対抗できる、自前の免疫システム」はぜひとも必要だ。

 小説家とジャーナリストは別物だと思っていたが、実は本質が似ている。トレーニングが必要な理由が、1つ分かった気がした。ジャーナリズムとは、真に不健康なものを扱う商売なのだ。

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