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フジTV産経新聞と17年闘う 松沢弘元論説委員が語る産経残酷物語(後)

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「反リストラ産経労」の松沢弘委員長らの闘いとフジサンケイ・グル―プの内部事情がよくわかる貴重な本。「フジサンケイ帝国の内乱」(松沢弘著・社会評論社・1800円+税)
 フジTV産経新聞グループの労組は、マスコミ界でまれにみる超御用組合である。グループに属する日本工業新聞社(現紙名=フジサンケイ・ビジネス・アイ)の松沢弘論説委員は、長年、労組改革のために努力してきた。しかし会社は、改革者に圧力をかけ続けたため、新組合結成を目指し始めた。前篇に引き続き、会社による重圧のなかでマスコミ界初の企業横断労組「反リストラ産経労」を結成した経緯について、松沢弘委員長に語ってもらった。
Digest
  • 「反リストラ産経労」結成で産経ビル内に歓声
  • フジテレビ・産経新聞グループは憲法も労働法もしらないのか?
  • “魔女裁判”で罵声を浴びる
  • 「あきらめないぞ!」 国を相手取って提訴

松沢元論説委員の激白(前篇)で、産経労組がまれにみる御用組合であることを語ってもらった。後編ではまず、一連の問題は、日本工業新聞という一新聞社内の問題ではなく、フジサンケイ・グループという日本最大のメディア・コングロマリット内における反乱であることを確認しておきたい。

産経労組は、いわゆる産経新聞グループに属する、産経新聞社(『産経新聞』『夕刊フジ』『サンスポ』『競馬エイト』など)、大阪新聞社(02年休刊)、日本工業新聞社(現紙名=フジサンケイ・ビジネスアイ=松沢氏が入社)の社員ら約2900人(94年当時)が加盟を義務付けられていた。

ユニオンショップ制で、産経労組を脱退したり、除名されたりすれば、会社から解雇されるという強制加入システムをとっており、会社やメディアが違っても同じ産経労組で同一の労働協約を結んでいる。

ここまででも、産経新聞グループ全体の問題であることがわかる。さらに㈱フジ・メディア・ホールディングスがグループを束ねており、同社の有力子会社はフジテレビとニッポン放送。

グループ内有力メディアの産経新聞社は、ホールディングスに入ってはいないものの、同社の株式の40パーセントをホールディングスが所有して支配権を握られている。しかも、赤字の産経新聞社に資金援助しているのがフジテレビと言われている。(この点を、例年の株主総会で株主から追及されているが、経営側は答えていない)。このように、産経新聞社・フジテレビ・ニッポン放送を中心に各企業が密接に絡んでいる。

その産経新聞社と同一労働協約を結ぶ産経労組に所属していた松沢氏が新組合を作って旧組合(御用組合)に対抗してのだから、フジ産経グル―プ全体と対抗しているような構図になっているのだ。

産経新聞グループは、かつて給与も紙面もそれなりの質を保ってきた。ところが、マスコミ支配を狙っていた財界から、「財界四天王」の一人と称された水野成夫(国策パルプ社長)が送り込まれてきてから(産経新聞社長就任1958年)は、体制がガラリと変わってしまう。

労組にスト権放棄の「平和協定」を押し付け、新聞労連からも脱退させ、徹底的に御用組合化して社内から批判勢力を一掃。紙面も「政府・自民党の宣伝紙」と揶揄されるような内容に激変した。さらに経営側は、60年から61年にかけて900人を退職に追い込んだ。これらの動きを「第一次産経残酷物語」と言う。

第二次産経残酷物語は、1976年。オイルショックのあと鹿内信隆産経新聞社長が、「刷新3ヵ年計画」と称して、「1800人規模で要員調整をする。ボーナスも賃金も下げる」という合理化策を打ち出し、産経労組が、それを丸呑みしたことによって始まる。71年の入社直後から、産経労組改革に取組んでいた松沢氏の活動は、これを機に本格化していった。

そして91年には、御用組合路線に対抗して、松沢氏ら改革派が産経労組定期大会の代議員に立候補し、真正面から執行部に反旗をひるがえした。ここから、あからさまに会社による締め付けが強まっていく。93年11月には、日本工業新聞社の大規模リストラ計画が発表され、第三次産経残酷物語の幕開けとなるにいたって、ついに松沢氏らは御用組合に見切りをつけて新組合結成に走ったのである。

 以下、再び松沢氏に語ってもらった。

「反リストラ産経労」結成で産経ビル内に歓声

単一の企業内だけでは、リストラ合理化攻撃に対抗できないと考えて、マスコミで初めての合同労組のかたちにしました。時事通信の組合などとも連携して、93年12月27日に結成準備会を開き、翌94年1月10日に結成大会を開催して反リストラ産経労を正式に結成しました。2月1日には、組合規約などを添えて東京都労働委員会に資格審査申請書を出しました。

経営側は、93年末には新組合結成の動きを察知して、労務(管理)担当常務の柳沼晃氏が、年明け早々に私との面談を求めて、直接、配転の脅しをかけるなどの攻撃を加えてきました。新組合結成後の1月25日に、柳沼常務らが私を千葉支局にとばすという内示をしてきた際に、その席で私は「社長に通告しなければならない問題がある」と新組合結成通告を予告して細谷洋一社長との会見を要求。1月28日に社長と会見して組合結成を正式に通告し、不当配転の撤回などを求める団体交渉を要求しました。

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「反リストラ産経労」の機関紙『予兆』第一号。1994年2月1日、東京大手町のサンケイビル内でこの機関紙が撒かれると、歓声が沸きあがる場面もあったという。

2月1日に、東京・大手町のサンケイビル内にある日本工業新聞社、産経新聞社編集局、夕刊フジの3ヶ所で『予兆』という組合機関紙の第1号を配布しました。サンケイビルの5階が日本工業新聞、3階が産経新聞で2階が夕刊フジ。夕刊フジに行って機関紙をまいたときは、歓声がわき「待ってました」とばかりに歓迎されるシーンもありました。ところが日本工業では、柳沼常務が、ビラを読んでいる社員の手から取上げるかたちで強制的に回収してしまいました。

懲戒解雇などの処分攻撃を避けるため、私は就業規則上の赴任期限の2月8日に千葉支局に赴任しました。千葉支局の支局員はたったの一人

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闘う組合が公然と顔を出し始めると、会社側は松沢委員長を呼び出し、賞罰委員会にかけた。松沢氏一人に対して経営陣が取り囲みまるで監禁されたような状態。さながら魔女裁判だった。松沢氏の右後ろに陣取った産経新聞東京本社総務局長の村島正敏氏が全体に睨みをきかせ、“魔女裁判”を事実上指揮していたという。この図は、松沢氏本人が当時の状況を振り返って描いたもの。1994年9月19日。この三日後に解雇通告を受けた。

井上保夫常務から松沢弘委員長の自宅に送られた手紙。新たな組合を立ち上げて活動しはじめた松沢氏に「君がこれからも会社と現体制に挑戦し続けるなら井上個人として決意し、対処しなければならないことになると思う」という文面に対し、「これは脅迫状ではないか」と松沢氏は批判する。

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マスコミ嫌い2011/04/22 16:07
元青年記者2011/03/30 16:01
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