オレオレ詐欺に遭いかけた(前編)
正午を少し回った頃、自宅には母と祖母がおり、ちょうど昼食をとった後だった。たまたま、父は出張で福岡へと出かけていた。
洗濯でもしようか、と母が腰を上げたとき、電話がなった。
「高橋卓也さんのお宅ですか?」
男の声は、低く、落ち着いた口調だった。まるで、やせほそった男が眼鏡をずりあげながら話しているような、そんなイメージを受けたと母は言う。
「私、検察の佐々木というものです」
--ああ、検察のお方ですか。
母はそう答えた。そう、ここは母が驚くべきところではない。実は私の弟・卓也は、ちょうど法律関係の仕事をはじめたばかりであったのだ。ちなみに弟は、実家から車で15分の距離のアパートで一人暮らしをしている。
母は、「佐々木」という男性など知らなかったが、息子と仕事柄つきあいのある人なのだろうと思い、
--いつも卓也がお世話になっております。と挨拶した。
ここで男は母に何も返さず(ただ母の証言によると、数秒だが、不思議な間があったという)、単刀直入に用件を話しはじめた。
「卓也さんがですね、ただいま事故を起こしまして。山王十字路の三車線の追い越し禁止のところでですね、追い越しをしてしまってぶつかってしまったんです」
弟は長らくペーパードライバーだったが、仕事上の必要から、この7月より少しずつ運転をすることなった。中古の軽自動車に初心者マークをつけて、おそるおそる運転している、といった次第だ。
山王十字路とは、秋田市内でもっとも大きな通りである山王大通りに存在する十字路である。この大通りは、竿頭祭りの会場としても使われ、竿頭通りとも呼ばれる。交通量も多く、事故も多発することで有名だ。
疑うべくもない。
いまだほとんどペーパードライバーである弟が、山王十字路で事故を起こしてしまった。そもそも弟は運転そのものが好きではないと、日がな漏らしている。免許取りたての頃だが、車庫入れに失敗し、消火栓に突っこんで盛大な水柱をたててしまったことすらある。
とうとうやったか!
と、母は驚き、
--卓也はどうしました?「ご心配なく。大丈夫です。ねんざと軽いケガですから」
ほっとする母に水を差すように、男は続ける。「ただ……卓也さんにぶつけられた車に乗っていた方なんですが……」
この後もたびたび出てくるが、男はほっとさせては落胆させ、という話術でどんどんと母の心理を追いつめていく。
--その方、ケガなされたんですか?「ええ、運転していた方がねんざをしまして。ですが、御心配なく。軽いケガですから」
--ああ、それは……
不幸中の幸い、と安堵する母に、男は次のカードを切る。
「いや、実はですね……いいですか、お母さん、落ちついて聞いてくださいよ。いいですか」
これも特徴的な話術だ。相手の心理を気遣うそぶりで、どんどんと不安をあおってゆく。重要な話の前には、わざともったいぶって関心をひく。
「運転していた御主人はねんざで済んだんですが、隣の助手席に乗っていたご夫人がですね、シートベルトをしていなかったためにですね、ぶつけられた時に体を強く打ち付けまして……」
--(絶句)それで?
「その方が妊娠八ヶ月目でしてね、急に車が止まってしまったんで、破水してしまったんです。意識不明になりましてね。おなかの子供ともども、命にかかわることになりまして。先ほどですが、救急車で運ばれていきました」
母はこの時、「気を失いそうになった」という。
「ところで、この件について卓也さんは示談を望んでいるんですね。今、ちょうど現場検証をやってますが……」
--卓也と、話ができますか?
「いえ、今はちょっとできません。示談が成立しませんと、現場検証が終わり次第、交通刑務所に送致されてしまいますし……」
普通、いきなり交通刑務所はない。普通、警察や検察の取り調べの後、公判か略式命令の請求を待って刑が確定するものだ。だが、この刑務所という言葉は、ここ最近、冬のソナタのことしか頭にない主婦には致命的なダメージを与えた。
母は泣き出してしまった。
--すみません、本当に申し訳ありません。どうしたらいいんでしょう。すみません、すみません……
母はもうこの頃には、勝手に想像をめぐらせて、この佐々木という検事は弟の仕事上の親友かなんかで、弟本人から連絡を受けて駆けつけ、弟のために奔走しているのだ、と思い込んでいる。
それだけではない、弟が後の始末を彼にまかせようとしている、もう弟と彼とは法的な事柄についても話がすんでいるのだ、それに従わなければならない、と自分に命じてさえいたという。
「お母さん、大丈夫ですか、落ち着いてください。大丈夫ですよ。現場検証が終わる前に示談にすれば、表沙汰にはなりませんから。今、旦那さんのほうが奥さんと一緒に病院へ向かっています。着いたら、そちらへ電話させるように言いますので、示談を受けるように言ってください」
--はい、わかりました。
「いいですか、奥さん、落ち着いてくださいね。これ、誰にも言ってはいけませんよ、守秘義務というもの、ご存知ですか。家族の人にも、誰にも言ってはいけないですよ」
そうしてはじめの電話が切れた。あきらかに挙動のおかしい母親に、祖母が話しかけた。
「おや、どうした? 何があった?」
--ううん、なんでもないの。
『守秘義務』という言葉が母の頭の中を回っていた。
さて、文章で読んでいるだけだと、ほんとうにこんな話を信じ込むものだろうか、と疑問に思う方もいらっしゃるかもしれない。
冷静になってこれまで記述したやり取りのなかで、怪しい言い分をピックアップしてみよう。
1 まず、男が「検事だ」と名乗ったこと。普通は、弁護士と名乗るはずであるが、この場合、弟が検事と立場的に近い仕事をしていたことで、この役名を選択したのかもしれない。
だが、一般的にこういった場に検事が出てくることはありえない。検事が出てくるのは、警察での取り調べが終わった後である。
また、警察・検事ともに、示談をすすめるということは、ありえない。逆に警察は逮捕、また検事は立件しないと、立場上、問題になる。
おおっぴらに自分が検事だと名乗って、示談をすすめることなどありえないのだ。
2 「現場検証」という言い方。交通事故の場合、普通は実況見分という。「検証」とは、礼状がないとできないものだ。交通事故で現場検証が行われるということは、滅多にない。重要な事件で、はじめの調べが甘かった場合など、新たに礼状を取ってやりなおすこともあるが、希有である。
3 まるで加害者との接触が取れないような言い方をしたこと。傷害事件で身柄を取ることは滅多にない。被害者を轢いて逃走した場合などをのぞいて、身柄を拘束されることはまずない。今回の場合、取り調べの後にすぐ交通刑務所送りというような言い方をしたが、これらを含めてまったくありえない。
4 守秘義務という言い方。普通は「職務上知りえた秘密を他に漏らしてはならない、という義務」という意味で使われるのだが、何故家族にすら相談できないのか。まったく自分らに都合のいいように言葉を押し付けている。
こういったものを怪しいとは思わなかったのだろうか?
その点は私も不思議だったので突っ込んで母に尋ねてみたのだが、「それはあたしだって新聞も読むし、テレビも見るからオレオレ詐欺が流行ってることぐらい知ってるわよ、でもね、あんた、じかに耳元で聞かされてごらんなさい、それも、うちに関係あることで話されるでしょ、検事とか、卓也の名前とか、山王十字路とか、いろいろ。それからね、もうめちゃくちゃ演技がうまいのよ」
そう、演技。これに尽きるようだ。
はじめの電話が切れて5分後、また電話がかかってきた。
受話器を取った母の耳に、「ぉぉぉおお……」という低くくぐもった嗚咽が届いた。これが、被害者の旦那の声であった。
さて、彼のアカデミー賞ものの演技のため、数十分後、母は銀行へダッシュするはめになる。(つづく)
※編集部注=本文中の被害者側の氏名は、希望により仮名にしております。
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読者コメント
私はアメリカの経済紙の記者のマーティンファクラーです。東京支局で働いています。今、オレオレ詐欺について記事を書いています。この詐欺の手口をできるだけ広く、世界で報道したいと思っております。そのため、実際に被害に遭った方のお話を直接に伺わせていただきたいと思っております。よろしくおねがいします。martin.fackler@wsj.com。電話番号は03-3595-7564。
長引く不況・マスコミの総右傾化で国民のロクな議論もないまま右傾化・ナショナリズムが静かに進行し、民主主義と平和が危機に瀕している。良識あるジャーナリスト・政治家の方はこの問題に真剣に取り組んでもらいたいですね。
良心・思想信条の自由を侵す復古主義的「道徳」「愛国心」を若い国民に強制し、体制の望む「望ましい日本人作り」推進の為、総御用メディア化したマスコミが若者の非行・犯罪や学力低下を大きくキャンペーンしだしたのだ。
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