先人の著作を読み、「旅は人生に似ている」と思う
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トラム(路上電車)は3人が旅したイスタンブールには存在しなかった |
立花隆(『エーゲ―永遠回帰の海』)は学者肌なので、さすがに本読みすぎだろ、という感じ。ルポが少なく、書籍から得た情報を書き出すととまらない。
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カフェのメニュー![]() |
旅の途中に1つ遺跡を見たら、それについて歴史や背景などを語り始めてしまうタイプである。これは学者や歴史家にとっては面白いのだろうが、一般ピープルの私には疲れてしまった。難しすぎて、ついていけない。
村上春樹(『雨天炎天』)は、たんたんと起こることを記述していく。文章のテンポがよく、表現も平易で面白く、1つ1つの文が短いから疲れない。13行連続で改行なし、という段落もあるが、割と読みやすい。これが文才なのだろう。参考にしたい。
たとえばビヤホールの表現。
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カフェで延々と話す親につきあわされて退屈そうな子供![]() |
沢木耕太郎(『深夜特急5』)は、目線の低い行動パターン、思考パターンが面白くて好きだ。沢木と村上を比べると行動様式がまったく逆で面白い。村上は現地人との交流を、途中でさっさと切り上げる。
「隣のテーブルの客がご馳走してくれることもある。トルコ人はだいたいにおいて親切な人なのだ。ただし後者の場合は例によって話が長くなるおそれがあるので、好意は好意として置いておいて、なるべく避けた方が賢明である」(『雨天炎天』より)。対応がドライで、ときに突き放すのだ。
逆に沢木は、延々とそれを楽しみ、受け入れる。チャイやビールをご馳走になって、「日々の小さな親切がありがたく染み入ってきた」「体の奥に暖かいものを感じていることが少なくなかった」と共感する。期間と目的が明確な旅であったハルキと、それが曖昧な沢木の違いもあるだろう。
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イスタンブルのビヤホールにてビールを一杯。ハルキの頃とは変わっていると思う。![]() |
いずれにせよ、3者の書物を読んでいて、文章には人柄がこれでもか、というくらいに表れるのだということを改めて感じた。立花隆が沢木のような目線の低い内容は書けないし、沢木は立花のような歴史や哲学について書くこともできない。最後は、書き手の興味や好奇心、その時点での、総合的な人間力のようなものが問われるのだ、と思った。だから「旅は人生に似ている」などと言われるのだろう。
旅した年代でいうと、沢木は1974年、立花が1982年、村上が1988年だ。良質な旅文というのは20年以上前のものでも面白く読めるし、簡単には色あせない。後世の人に役立つ。だから私も、そのようなものを目指したいと思うのである。
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以上
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