「新聞、一ヶ月千円で取りませんか?」と日曜の午前にあらわれた朝日の拡販員。千円とは安い!と話を詳しく伺ってみる。疲れきった拡販員は、拡販業務の裏側や新聞社の内情まで教えてくれ、私も安価で新聞を手に入れることができたのだが……。
それは先週の日曜日のことだった。ピンポンと鳴ったのが、午前10時半。私はまだ眠っていた。宅急便でも届いたかと、ねぼけまなこで通話フォンを取ると、
「すいません、以前お世話になった朝日新聞の者ですが」との声がする。
--ああ、どうも。でも新聞は今取る気ないですから。
そうだ、新聞を取らなくなってから、もう3年も経つ。
テレビとインターネットでたいていの情報はまかなえてしまう今、私にとっては、もはや新聞には月に4000円近くを払うだけの価値がないのだ。
それでは、いくらなら取ってもいいだろう? 考えたこともなかった。
「あの、一ヶ月千円で取っていただけないかと思いまして……」
千円?
興味がわいた。二千円なら迷わずノーだ。しかし千円といえば、定価の約四分の一。悩むところである。
もし態度の悪いテキ屋風の契約員だったら、逆に月に四千円もらっても願い下げではあるが、その拡販員は違った。
肩身せまく玄関に入ってきたその男は、色あせたネルシャツの上にぼろぼろのジャケットを羽織っていた。まだ若い。20代後半といったところだ。前髪に隠れた大きな目が、自信なさそうににおどおどと動いていた。
「わ、私ども、え、営業専門の会社のものでございまして……」と彼は伏し目がちに呟く。やはり拡販員だ。とりあえず中にあげて、詳しく話を伺うことにした。
朝刊のみ、ひと月3720円のところを、ひと月千円。3ヶ月でどうですか、ということだった。
八千いくらの差額を前もって渡すので、集金の時に定額を払うか、
あるいは、今三千円払ってくれれば、3ヶ月ぶんの領収書を先に切ってもいいとのこと。
後者では集金は来ない。断然、今、三千円払った方が楽だ。
--しかしね、どうしてそんな安くなっちゃうの?
と私は聞いてみた。
「わ、私ども契約が止まった方しかお受けできないものなんですけど、一回止まってしまいますと、なかなか、また始めてもらうのは難しいので……す、すべて自己負担でやっているんですが、はじめ半額くらいでお願いしてダメそうだったんで、もうちょと自分の方から出せばいけるかな……と思いまして……」
--これ、新聞って、今、みんな千円くらいで買っちゃってるの?
「あ、あのですね、みなさまニーズが違うものですから……あ、あくまでも、わ、私とお客様の『個人的な関係』ということになってしまいますので、お客様によってはお金はダメなので商品券、ビール券が欲しいという方もいらっしゃいますし……」
彼によると、新聞社の販売店では、できるサービスが限られているのだという。
「サンパチ・ルール」というものが存在し、新聞社では3ヶ月の契約では8パーセントのサービスまでしかできないのだという。8%といえば千円未満でしかない。
「お、お店(販売店)は、おそらく(営業の会社がどういう売り方をしているか)わかってるとは思うんですけど。そ、そんなに店員が回って契約もらえないのに、わたしらが行ってもらえるわけはないので……」
しかし、安いにもほどがある。
この仕事、あなたにはどれだけ実入りがあるのか、と尋ねると、一つの契約につき、新聞購読3ヶ月ぶんの定額が入ってくると言う。
その金のうち、半分が自分の所属する営業会社から、そして半分が販売店から出るとのこと。
販売店にとっては、部数の多い方がチラシの収入が上がる。そして販売店はそのチラシの収入で、営業会社を雇っている。自分らではできない仕事をさせるためにだ。
こうして、目の前の彼の生活はなんとか成り立っているようだ。
いや、成り立っているのか……と、みすぼらしい彼の格好を見る。
「(自己負担分のお金は)き、今日だけは、あのマイナスになってしまうんですが、き、給料日に戻ってきますんで……」
3ヶ月分定額の金額を補填され、それを彼が自分の裁量で売るわけだから、彼の実質的な取り分は、彼の提示する金額、一件の契約につき三千円、つまり私が渡す分だけだ。三件契約を取れても、一万円いかない。
基本給とか、もらっているのか? 単にノルマがあるだけの委託業務だとしたら悲惨だ。
ちなみに、新聞社自体はこういった金銭の流れには完全ノータッチという建前。もっとも恩恵をこうむっているにもかかわらず……。
さて、彼に名刺があるのかと尋ねると、代わりに『新聞セールス近代化センター』という組織が発行している新聞セールス証とやらを見せてくれた。写真が貼付けられてあり、名前も書いてある。
営業のくせに名刺がないというのもおかしな話ではあるが、やはり『個人的な関係』に徹する必要があるのだろう。決して証拠は残さないつもりだ。
--これ、6ヶ月で取ってもいいんだけど?
と、私はあえて聞いてみた。
「3ヶ月と6ヶ月の成績があまり違わないので……赤になっちゃいますので……」と彼は口ごもる。
つまり、3ヶ月後、改めて自分と契約してもらいたいようだ。
彼によると、もし販売店が、契約期間が終わっているのに勝手に新聞をポストに入れている場合は、やめろと店に伝えなければならないとのこと。ほっておくと、購読料を取られてしまう。これが、いわゆる『押し紙』というものなのだそうで、それに気をつけて下さい、とアドバイスしてくれた。
あらかた話が終わり、万全を期して先に領収書を切ってもらうことにした時、彼がこう聞いてきた。
「ああ、あの、それで朝刊と朝夕刊では変わってくるんですが……」
千円のほうでいいと言うと、どちらも同じ値段です、とのこと。なら、朝夕刊でお願い、と伝えた。
20分後、彼はまた戻ってきた。額面11,775円の領収書と今日の新聞まで携えて。書類にはしっかりと、販売店の印も押されてある。
朝夕刊3925円を千円でゲット。しかも、今月残りもまるまるサービスしてくれる。ラッキーとばかり、私は購読契約書に必要事項を記入し、三千円を払う。
だが、やはり相手はこの金に関しての領収書は切ってくれない。
--あの、いちおう、そちらの会社の電話番号教えてもらえます?
彼は、社名と電話番号を教えてくれた。会社は池袋にあるという。日によって行く場所が違い、「朝、上のものからどこどこに行きなさいと言われる」とのことだ。
「同じ朝日(の販売店の中)でも競争なんですよ、ひ、ひとつのところにセールスの会社がいっぱい入ることもあるので……」
広域の販売店だと、いくつもの拡販チームを入れて競争させたりするということだ。
「チームによって金額なんかも違う」「強化月間だと、懸賞金なんかもついたりもする」し、「どうしても仕方ないときは、赤字でもやっちゃう」らしい。
「(新聞社)本社の方は部数を増やせ増やせというんだけど、あっちが許しているサービス自体は(サンパチルールで)ビール券二枚までということになっていますので」
と、彼は疲れた声で、事情をぼそぼそと漏らす。
「なかなか、け、契約が取れないんです。若い人はインターネットやりますし、新聞が、じゃ、邪魔になるとかで」「交通費とか全部自腹なんで、ゼロ件だともう一日まわってもマイナスなので……。でも、き、今日は本当に助かりました、ありがとうございました」
彼はくたびれた様子で、へこへことお辞儀をしながら帰っていった。
新聞社は再販制度を維持しようと懸命だ。
「全国どこでも、同じ価格、同じ条件で」届けるためというが、この件が明らかにしているように、実質的にそんなものは崩れている。だが、新聞社はあくまで、この水面下で起こっている出来事については知らぬ存ぜぬを決め込むだろう。
損をしているのは、毎月定額の購読料を払い続けている購読者たちだ。
そして、背を丸めて去っていく彼もまた犠牲者だ。この表沙汰には決してされない裏の業界で、毎日身を粉にして契約を取り続けている。
はじめ、朝刊だけを売りたがったのも、何かわけがあったに違いない。自己負担分を数百円でも減らしたかったとか。あるいは補填される金額は朝刊のみ3ヶ月の購読料だとか……。
確か私は得をしたはずなのだが……どうにもやりきれない感覚が残る。
さて読者諸兄、あなたは、新聞にいくら払っていますか?
