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日本で実現するには?『スーパーサイズ・ミー』

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「予告編」より。2002年の裁判報道(自分らが肥満になったのはハンバーガーが原因、とマクドナルド社を相手どって訴訟をした)がきっかけで映画を企画。
 1ヶ月マクドナルドだけを食べ続ける企画を通してファストフードの問題点をリポートするドキュメンタリー映画。こういう作品が実現するとは、米国はつくづくジャーナリズムが健全に機能する社会なのだと感じる。どうすれば日本に類似作品が生まれるのか。

■なぜ日本では企業監視モノがないのか?

「1ヶ月間ずっと吉野家の牛丼」「一ヶ月間ずっとコンビニ弁当」でも、似たような結果が出ることは想像に難くないが、日本ではそういった作品は過去に生まれていない。なぜマイケル・ムーアやモーガン・スパーロックのようなドキュメンタリストが日本に生まれないのか。これは単に挑戦者がいなかったということ以上に、その背景に問題があると思われる。

第一に、日本には、取材手法に対する誤った固定観念がある。例えば「自動車絶望工場」(鎌田慧)が大宅壮一ノンフィクション賞を受賞できなかった理由(選評)として潜入・体験という取材手法がよくないと指摘されたり、毎日新聞の西山記者による沖縄返還協定密約をめぐる「外務省機密漏洩事件」(いわゆる「西山事件」)でも、女性外交官と「情を通じて」政治部西山記者が機密を入手したことが問題視されている。

本当に重要な事実を伝えることよりも、その伝え方や取材手法といった「体裁」や「お行儀のよさ」が重視されるのだ。このような思考パターンの下では、スパーロックのような手法はまさにお行儀が悪いとされ、日本では全く受け入れられない。スパーロックは、マクドナルドの店内など、かなりアポなし取材と思われる手法を使っているが、日本では確実に非難される。

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大衆性との両立がポイント

第二に、メディアリテラシーの欠如。国民は企業による大量のCMと記者クラブ発のマスコミ報道によって、企業側の発想をするよう、日々、マインドコントロールされている。しかしメディアリテラシー(メディアを読み解く力)の教育がなされないため、多くの人がそのことに気づかない。だから、「企業様の許可を得ずに取材をするなんてとんでもない」という発想が生まれる。また、日本では報道の自由という概念が理解されていないから、すぐに『会社人間』の店長が出てきて取材の妨害を始めるだろう。

従って、日本でこういうドキュメンタリーをやろうとすると、「マクドナルド社の許可をとったのか」とか、「著作権はいいのか」といった、訳の分からないことを言い出す輩が必ず出てくるから始末に終えない。根拠もなく企業は常に偉い、と考えてしまう思考パターンになっている。

私はこの映画を観て以来、2度とフライドチキンは食べられないと思った(前から食べたことはないが)。こういった正面からの企業批判モノは日本では出来ない。

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取材に応じた食品業界御用達のロビイストは、職を辞した。マクドナルド社は14回取材しても取材に応じなかったという。

第三に、ユーモアや大衆性の欠如。日本の社会派ドキュメンタリーでは「A」や「日本の黒い夏」といった作品があり、テーマは共感できるものだが、演出手法が違い過ぎる。決定的な違いは、ユーモアと大衆性の有無だ。

本当に影響力を持って世の中を変えたいと思うのなら、より多くの人に受け入れられる工夫が必要で、自己満足になってはいけない。日本のドキュメンタリーは、どうしても限られた人たちに向けて作られているように見えてしまう。カタいのだ。それに、本当に多くの人に見せたければインターネットで放送すればよいのにそれもしない。

「ジャーナリズムは3つのうちいずれかをかけないと良いものは生み出せない。カネをかけるか、時間をかけるか、命をかけるか」とどこかで聞いたが、スパーロックは、命に近いもの(健康)をかけてユーモアや大衆性を演出している。

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元旦の朝日新聞はマクドナルド店舗を解体したボベ氏を写真つきで紹介。

■どうすれば実現するか

朝日新聞は、元旦の紙面より「我らの聖地ローカル@グローバル」という企画を開始し、仏の農民運動指導者、ボベ氏をリポートしていた。99年に、仏南部で建設中のマクドナルド店舗を解体した反グローバル化運動の指導者である。

こういった少しでも企業の利益に反する企画は、日経新聞にはできない(日経の新年企画は「少子に挑む」という何を今更、という企画。大前研一が10年前から「平成維新」で言っていることである )。間接的に紹介するだけでも朝日はマシだ。新聞は約半分は広告収入なので、これが限界だろう。

映像媒体では、ドキュメンタリー番組を作りたいという潜在的なスキルを持った人は結構いる。しかし実際にテレビ局に入社し、いざ入ってみてもドキュメンタリー番組は視聴率がとれないからほとんど活躍の機会は与えられないまま、そのうち待遇も居心地もよいことから当初の目的などどこかにいってしまう、というパターンが多い。実際、そうなりかけている人を何人も知っている。

しかも、地上波は企業のスポンサー収入で成り立っているため、そもそも本当のジャーナリズム(=聖域がない報道)は不可能だ。スパーロックは、膨大な広告予算をメディアに投じ子供時代からマクドナルドファンにしていく戦略をリポートしているが、こういったリポートは絶対にマスコミでは不可能である。

となると、結局、まずはインターネットでやるしかない。技術的には可能だしコストもそれほどかからない。そこで反響があれば「スカパー」など衛星放送にコンテンツを売れるだろう。実際、スパーロックは、2000年にウェブサイト上の番組「I BET YOU WILL」を製作して話題となり、2002年にMTVがテレビ放送用として、その番組の権利を購入。その利益をもとに「スーパーサイズミー」を作った。

お上意識や企業礼賛マインド、会社人間、異なる意見を尊重せず一枚岩を作りたがる「メダカ社会」の国民性…と障害はあまりに多いが、健全なジャーナリズムを機能させるためには、ドキュメンタリー映画は日本でも是非とも実現させたいジャーナリズムの分野である。

この映画は、サンダンス映画祭で最優秀監督賞を受賞、既に世界26カ国で公開が決定しているが、プロモーションで各国を訪れると取材しないメディアがあり、日本でもテレビ取材はほとんどなかったという。あれだけCMが流れているのだから当然であろう。地上波テレビには本当のジャーナリズムは構造的に存在しえない。

実際、かなり知っていそうな人でさえ、この映画の存在を知らなかったから、これはまさに、「伝えない」というテレビ局の思う壺だ。視聴者は情報網を張り巡らし、何が伝えられていないのか、を常に考えなければならない。それがメディアリテラシーである。

「今はスポンサーに対してプラスであれば表現の自由があり、そうでないものに表現の自由はない。だからこそドキュメンタリーの重要性が増し、作り手の視点や事実を検閲なく表現できる唯一の手段なのです」(「潮」2005年1月号)というスパーロックの言葉は重い。

スーパーサイズ・ミーHP
↑「cinemacafe.net」では日本のファーストフード会社トップ5に公開質問状を送付した。

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