本音はジャーナリズムか既得権か
よくなされる議論の枠組みとして典型的なのが、「会社は株主のもの」という主張と「ジャーナリズムは中立である」という論旨の対立である。主に前者はコマーシャリズムのプロが言い、後者はジャーナリズムのプロが言う。
発言者の立場も思考の座標軸も異なっているので、どうしてもこの議論はかみ合わないことが多い。が、それはさておき、この構造の中で私が素朴に疑問をもつのはそもそもの入り口の部分だ。
つまり、ニッポン放送のどんな部分が「ジャーナリズム」でフジテレビのどんなところが「ジャーナリズム」なのだろう、
と。
「ジャーナリズム」が当たり前のように使われているが、ざっくりとしすぎてよくわからない。権力の監視?国民の目や耳になること? 権力に対し中立性を保つこと?
それはそれで定義だろうし、正しいのだろうが、でもそれならなおのことニッポン放送とフジテレビのどの部分がジャーナリズムなのかがわからなくなる。
「楽しくなければテレビじゃない」と「ジャーナリズム」がどうしても結びつかないのだ。テレビ番組欄を、ラジオ番組欄を見れば見るほどよくわからない。
考えてみればフジテレビもニッポン放送もスポンサードで成り立っているわけ で、程度の差こそあれ、そもそも構造的に前述の定義における「ジャーナリズム」は成り立ちづらい。
やはり、私はジャーナリズム云々という「公」の観点では本質にたどり着けない気がする。ちょっと勘ぐった見方をすれば、むしろ当事者はこんなことはとっくに自覚していて、ジャーナリズムを隠れ蓑にした、既得権(主に報酬水準)の遵守、つまり「私」の観点を「公」の観点で覆い隠すという、議論のすり替えが起こっている気がする。
以下この勘繰りを前提に展開するが、M&Aで最も重要でかつ難しいのは人的部分 の融合である。人心を如何につかむか、従業員が経営者に共鳴し同じ方向を向 き、一丸となれるか。一人歩きする「ジャーナリズム」はそれを邪魔する。
「私」は重要である。既得権を奪われることに嫌悪感、恐怖感を覚え、何とかそれを避けようとするのは当たり前のことだ。
当事者は、ジャーナリズムというあまりに抽象度が高い言葉で「公」を叫ぶのではなく、本音の部分で声高に「私」を主張してもよいのではないだろうか。私は、そのほうがよほど腹を割れるし、現実的で建設的な議論にもなると思う。
「堀江はジャーナリズムがわかってない」とか「堀江は報道機関としてのビジョンがない」という、あまりに正しくて、あまりに内容のない指摘よりもはるか に。
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