平成の自動車絶望工場、トヨタ系ジェイテクト潜入体験記「彼らは幸せなのか?」
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ジェイテクトで10か月間、社外工として働いた池森憲一さん(36歳)。その体験を著書『出稼ぎ派遣工場~自動車部品工場の光と陰』(社会批評社)にまとめた。 |
- Digest
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- 貴重な企業潜入ルポ
- 2分間の面接で「大学出ちゃった」とつぶやいた面接官
- 一日1560個の部品検査を手作業で
- 挨拶を一切しない正社員も
- 人間より機械のほうが人間的
- 製品を持ちながら歩行中に眠る
- 168人のブラジル人たち
- 元銀行員のブラジル人が同じ組に4人
- 機械は“修理と点検”、人間にはメンテナンスなし
- 休憩時間、休憩室に入らず屋外で過ごす日本人社外工
- 汚れた作業着の日本人と清潔な作業着のブラジル人
貴重な企業潜入ルポ
自動車絶望工場といえば、1973 年に出版された鎌田慧氏のルポルタージュが有名だ。トヨタ自動車に季節工(期間工)として入り、過酷な労働の実体験をつづったもので、自分が働く現場をルポする独特のスタイルが出版ジャーナリズム界で注目され、今でも語り継がれている。
それから34年。トヨタをはじめとする自動車産業の隆盛で、有効求人倍率が4年以上も連続で日本一を誇った2007年の愛知県。派遣社員など大量の非正規社員が自動車関連工場の門をくぐった。そのなかの一人が、池森憲一氏だった。
同年2月、派遣会社の小松開発工業をとおして、トヨタ系ジェイテクトに、社外工として入社した。ジェイテクトは筆頭株主がトヨタ自動車で、2位がトヨタ系のデンソーという、まがいなきトヨタの「ケイレツ」会社である。
現在、出身地の愛知県名古屋市に住む池森憲一氏を訪ねた。
これまで池森氏は、“旅をしながら働いてきた”と言えるだろう。今回の、トヨタ車の部品を製造するジェイテクト工場での体験ルポも、その流れの中にある。
池森氏は1974年、名古屋市生まれ。近畿大学建築学科在学中の20歳のころから、彼の旅と労働が始まる。オーストラリアの華僑経営の中華料理店でまず働き、その後はギリシャ系移民の農園で季節労働者たちと働いた。大学卒業後に中国を旅し、少数民族と知り合ったのを機に中国奥地に語学学校を開設。25歳でニューヨークに行き飲食店でアルバイト。同じ店で働いていたメキシコの少数民族・ミステコ族と知り合い、彼らの故郷を訪ねたルポ『ニューヨークのミステコ族』(トランスビュー2003年)を発表した。
帰国後の彼の人生もまた面白い。短期のアルバイトをしたのち、地元名古屋で社員30人のパチンコ工場の正社員として4年間を過ごす。フィリピン人やブラジル人労働者を直接使う立ち場になった。派遣社員を解雇した経験もあるという。
――そもそもなぜトヨタ系の企業に社外工として働く気になったのですか。「朝だれより早く出社し、最後に帰る。非正規社員をクビにせざるをえなかったり・・。こんなことを続けていてへとへとになり、4年でパチンコ工場を辞めました。そして次に本格的に働いたのがジェイテクトだったのです」
「もちろん、鎌田慧さんの自動車絶望工場を意識しました。鎌田さんがトヨタ自動車で期間工として働いた当時とちがって04年3月の労働者派遣法の改定により、製造業で大量の派遣社員が生まれ、経営者は(契約期間満了を理由とした雇い止めで)よりクビを切りやすくなりました。また、外国人労働者が増えたのも当時との違いでしょう。
私が働いた07年は、自動車産業は非常に勢いがありました。いまこそ、自動車部品工場内部で人々は何を考えどう感じているかを実際に見てみたい、トヨタをはじめとする日本の自動車産業を支えるブラジル人たちのことを知りたいと思ったのです。彼らは幸せなのか――。これが最大の問いでした」
2分間の面接で「大学出ちゃった」とつぶやいた面接官
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(上)小松開発工業と交わした派遣契約書。時給などが明記されている。同社を通してジェイテクト田戸岬工場に派遣された。試用期間の2週間は派遣社員として契約。
(下)試用期間終了後は期間工(社外工)として直接ジェイテクトと契約した。この際、派遣会社が保証人となる。![]() |
池森氏はつぎの三つの条件を満たす人材派遣会社を探した。
①トヨタとのつながりが強い。②愛知県内の西三河地区(トヨタ関連企業が集中)の人材派遣会社である。
③ブラジル人を多く派遣している。
その結果、小松開発工業という人材派遣会社を見つけた。具体的な派遣先としては①下請部品メーカーであること、②ブラジル人と同じラインで働ける、③夜勤がある、の3条件をすべて満たす株式会社ジェイテクト田戸岬工場となった。
「私はトヨタの主要な生産ラインなんかにはこだわりません。下請であることを優先しければ自動車産業の本質など見えてこないと思うのです。トヨタはダメだけどホンダはまだいいほうだ、などという視点にならないためにも、トヨタ以外の部品も扱うところが必要でした。
派遣会社の小松開発工業を訪ねた翌日の2007年2月23日、営業の人と一緒にジェイテクトに向かいました。担当の人が『大学でちゃった』と独り言のように言うんです。
大卒は採用しないのではと一瞬不安になりましたが、『この“大学”のところは消しておこう』とつぶやきながら、担当の人は事務所に戻っていきました。
玄関ロビーで立ち話を2分間。これが面接でした。すぐに2階にあがり作業服と安全靴、ロッカーのカギなどを受けとり働けることになったのです」
こうして派遣社員として働くことになった池森氏の労働条件は、
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(上)検査部位を示す看板が壁にかかっていた。(下)は、池森氏が働いていた138組の人員構成だ。正社員と非正社員(社外工)の比率はおよそ1:2。金属年数5年以上はひとりだけで、半分くらいは1年に満たない。次から次へ替えられていく。
池森さんが働いた04ラインといわれるところ。彼が在籍していたころ、工場は昼夜稼働していた。機械音に一日中さらされると疲労が増してくる。「機械との競争」だったと言う。ノルマ達成しようとする正社員のなかには、機械の遅さに苛立つ人もいた。馴れれば比較的遅く感じる機械の動きのほうが、「まだ人間的ではないか」と池森氏は言う。
昼夜二交代のシフト。一週間ごとに昼と夜が逆転するのは想像以上にきつかったと池森氏は振り返る。製品をもって歩きながら、ほんの数秒寝てしまったことも何度かある。他の社員が立ったまま寝ているのを池森氏は何度も目にしている。それほどきつい単純作業なのである。このような状態で生産された部品が組み立てられて自動車は製造されるのだ。
(上)10か月の社外工を経験した池森氏が、そのころの従業員の入退社表をつくった。ブラジル人社外工はクビになりやすく、日本人社外工はクビは一人もいなかった。「不安のようなものを抱えている」のが日本人である。同じ現場で働く従業員だが、正規・非正規・国籍の差により、溝のようなものがある。日本の労働環境を象徴しているといえるだろう。(下)池森氏は、積極的に日本人ともブラジル人とも交流した。工場の外でいっしょに飲んで話したりもした。
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今までやってきた差別は、これから日本人に行われるよ。日本での生産は厳しくなり、海外で生産するだろうな。日本人も海外に出稼ぎに行く日は遠くない。
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